2023年11月に麻布台ヒルズが完成しました。港区麻布界隈において新しいランドマークとして注目され、メディアでもたびたび取り上げられました。しかし、麻布台ヒルズが再開発される前に、元は何があった土地なのかを知るとイメージが変わってしまうかもしれません。一体それはなぜでしょうか。その秘密は「我善坊谷 火葬」と検索すると行き着くとされます。この記事では、麻布台ヒルズ周辺の歴史についてみていきます。
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再開発前の麻布台について、少し解説します。
港区の公式HPによると麻布台は下記の説明があります。
明治5年(1872)に「我善坊谷」の武家地を“我善坊町”とし、6 年後の「郡区町村編制法」によって麻布区に編入されました。昭和49年(1974)の新住居表示により、麻布我善坊町、麻布飯倉田一~三、同六丁目の全域に、飯倉片町と麻布狸穴町の東半分をあわせた町域を現行の麻布台としました。
港区の公式HP
このあと解説する、「我善坊谷」も範囲に入っていることがわかります。
また、麻布地区には下記の地区があります。
有栖川(ありすがわ)
麻布台(あざぶだい)
麻布狸穴町(あざぶまみあなちょう)
麻布永坂町(あざぶながさかちょう)
麻布十番(あざぶじゅうばん)
東麻布(ひがしあざぶ)
飯倉(いいくら)
南麻布(みなみあざぶ)
元麻布(もとあざぶ)
西麻布(にしあざぶ)
六本木(ろっぽんぎ)
桜田(さくらだ)
■麻布台ヒルズの種類
・麻布台ヒルズ 森JPタワー
・麻布台ヒルズレジデンスA.B
・麻布台ヒルズガーデンプラザA.B.C
日本郵政グループ飯倉ビルの跡地に「麻布台ヒルズ森JPタワー」が建設されました。
■麻布台ヒルズの設立経緯
日本郵政と森ビルがタッグを組む。
↓
虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発組合を設立。
↓
再開発を進める。
■麻布台ヒルズの高さ
麻布台ヒルズ森JPタワーは、高さ約330メートルの日本一高いビルとされます。
■麻布台ヒルズは何がある?
施設内には、オフィス、ホテル、商業施設、住宅、文化施設、教育機関や医療機関などがあります。中でも、麻布台ヒルズ展望台は、東京タワーを見下ろせる夜景スポットとして人気があります。
「麻布は住む場所ではない」
「麻布は忌み地」
という噂を聞いたことがあります。
よく言われるのが、麻布の土地の由来に「麻の産地」という説で、過去、この周辺に住んでいた農民たちが麻の布を織っていたことから来ているとされます。そのため、この周辺は「麻布村」と呼ばれていました。
一方で、その麻の用途を辿ってみると「遺体を包んで運ぶための布」として麻の布袋が使われたという説があります。
そして、麻布周辺には遺体を処理する仕事に従事する「非人」が住んでいたとされています。(非人とは士農工商の身分制度から外れた身分の低い人たちの呼称をいう)
その非人たちには人々がやりたくない仕事(処刑場の雑務や囚人の世話)をしていたそうです。
中でも、麻布台ヒルズの下記の場所は、我善坊谷(がぜんぼうだに)とされます。今の麻布台一丁目にある麻布郵便局があった裏手の低くなった谷状の土地一帯。
また、我善坊谷の地名の由来は下記の2つが有力とされています。
①坐禅を組んでいる坊主がいたことから「坐禅坊主→我善坊谷」になった説
②火葬場が設けられた場所で、「龕前堂→我善坊→我善坊谷」になった説
※「徳川実紀」には火葬場が設けられたのは我善坊谷とされている。(徳川実紀の信憑性は不明)
そして、麻布台ヒルズ周辺の古地図では、「御先手組与力同心大縄地」となっており、この辺は、江戸時代の頃、下級武士の与力の屋敷だったといわれています。
与力たちは、盗賊や罪人たちを「我善坊谷」へ追い込み捕まえていたといわれます。
こうしてみると風水でいう「台」がつく地域に当てはまり、「湿地」で、尚かつ罪人を追い込む場所だったとされる場所という、あまりよくない土地の条件が揃っています。
ここまで、麻布台ヒルズの土地の歴史について解説致しました。